教団について

基本情報

名称日本フリーメソジスト教団
法人種類包括宗教法人
所在地〒631-0002
奈良県 奈良市 東登美ケ丘2-13-1
創立1984年
代表者馬場 一朗(理事長)
WEBサイトhttps://fmcjp.org

日本フリーメソジスト教団の沿革

フリーメソジスト教会は、1860年、北米のメソジスト監督教会から分離したB・T・ロバーツたちによって結成された。日本では1896(明治29)年、柿原正次、河辺貞吉らによってその伝道が開始され、関西を中心に各地に教会が設立されたのが日本自由メソヂスト教会の始まりである。やがて1941(昭和16)年、日本基督教団の設立に際してこれに参加したが、1952(昭和27)年には,フリーメソジストの信仰と機構をもって再出発すべく、元自由メソヂストに属した諸教会は同教団を離れて日本自由メソヂスト教団を再建した。1984年4月、アルミニアン・メソジスト主義の立場に立つことを願う諸教会は、従来の教団から分かれて日本フリーメソジスト教団を設立した。

その教義

日本フリーメソジスト教団の信仰の立場は、その教憲および信仰箇条に明示されている。教理においては、福音的アルミニアン・プロテスタント主義の標準的信仰に立ち、ジョン・ウェスレーが主張した全き聖化についての聖書の教えを明確に強調している。

日本フリーメソジスト教団の信仰箇条

1聖なる三位一体

すべてのものの創造者であり保持者である、唯一の生けるまことの神がおられる。この神は唯一でありつつ、そのうちに父、子、聖霊という三つの位格を持っておられる。これら三位の神は、永遠性、神性、目的において一つであり、力と知恵と愛は無限で、永遠に続く。

2子なる神

受肉

神ご自身が、人間をご自分と和解させるために、イエス・キリストのうちにおられた。イエス・キリストは、聖霊によって宿り、処女マリヤより生れ、そのようにして神性と人性とをひとつに結び合わされた。ナザレのイエスは人間の肉体をもった神であり、まことの神であり、まことの人であった。彼は、私たちを救うために来られた。実に私たちのために、神の子は苦しみ、十字架につけられ、死んで葬られた。キリストは、私たちの罪と罪科のために、何のけがれもない犠牲の供え物として、ご自分の命を捧げられた。私たちは、イエス・キリストこそ私たちの救い主であり、神と人との完全な仲保者であることを、感謝をもって告白する。

復活と高挙

イエス・キリストは、勝利のうちに死より復活された。彼の復活の体は、普通の人間的な制約には拘束されない、より栄光に満ちたものとなった。こうして彼は天に昇られた。彼はそこで、高く挙げられた私たちの主として、父なる神の右に座り、彼の敵がすべて完全に服従させられるまで、私たちのためにそこで執り成しておられる。彼はすべての人を審くため、帰って来られる。その時、あらゆるものが膝をかがめ、またあらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するであろう。

3聖霊

その人格

聖霊は、三位一体の第三位格の方であられる。彼は父と子より出て、父と子と一体であり、その神性、尊厳、能力は共に等しく、永遠の神であられる。彼は、創造のみわざ、生命を与え保持する働き、そして教会の活動において、力強く働かれる神である。イエス・キリストの受肉とご奉仕は、聖霊によって成し遂げられたのである。彼は、今日にいたるまで、み子を啓示し、私たちに理解できるように教え、その栄光を表しておられる。

救いにおける働き

聖霊は、父なる神によって計画され、み子の死と復活と昇天によって備えられた救いを、実際に執行される方である。聖霊は、私たちを確信させ、新生させ、聖化し、栄化することにおいて、力強く働かれる神である。彼は、いつも共にいて下さる主ご自身であり、信仰者に内住し、確信を与え、力を与えて下さる。

教会との関係

聖霊は、父なる神とみ子によって、教会に注がれている。聖霊は教会の生命であり、証しの力である。聖霊は、信仰者を神の愛によって満たし、彼のうちにイエス・キリストの主権を確立し、その結果、御霊による言葉と奉仕の賜物が、主にある公共の益を造り出し、教会を建て、成長させるのである。この世との関係においては、聖霊は真理の御霊であり、神のみ言葉を用いて働かれる。

聖書

4権威

聖書は、聖霊によって独特な仕方で霊感され、記録された神の言葉である。聖書は、生けるみ言葉であるイエス・キリストについての、誤りのない証しを与えるものである。初代教会とそれに続く教会会議によって確認されたように、聖書は信頼に値する神の啓示の記録であり、それが宣言することは、すべて完全に真理である。聖書は今に到るまで、忠実に保存されて来ており、また人間の経験に照らしても、それ自体真理であることを証明している。聖書は、神によって感動させられた人間の著者によって書かれて、私たちに伝えられた。その著者たちは、彼らが生きたそれぞれの時代の言語と文学様式を用いて書いたのである。それ以来神は、このみ言葉を通して、また聖霊の照示(注4)によって、各々の世代と文化に向かって語り続けておられる。

聖書は、全人類の生き方の上に、権威を持っている。聖書は、神について、また神の創造、神の民、神のひとり子、そして全人類の運命についての真理を教える。聖書はまた、救いの道と信仰生活について教える。しかし、聖書に見出されないことや、聖書によって証明されないことはすべて、信仰個条や救いに必要なことがらとされてはならない。

5旧約聖書の権威

旧約聖書は、新約聖書に反するものではない。両方の聖書がキリストおける神の救いを証言し、神の民に関する神のみ心について語っている。式典と祭儀に関する古代の律法や、イスラエル国民のための市民法は、かならずしも現代のクリスチャンを拘束するものではない。しかし、私たちは、イエスの模範にならい、旧約聖書の道徳的戒めを守るべきである。

旧約聖書の諸巻は、次の通りである。

創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記、ヨシュア記、士師記、ルツ記、サムエル記上、サムエル記下、列王紀上、列王紀下、歴代志上、歴代志下、エズラ記、ネヘミヤ記、エステル記、ヨブ記、詩篇、箴言、伝道の書、雅歌、イザヤ書、エレミヤ書、哀歌、エゼキエル書、ダニエル書、ホセア書、ヨエル書、アモス書、オバデヤ書、ヨナ書、ミカ書、ナホム書、ハバクク書、ゼパニヤ書、ハガイ書、ゼカリヤ書、マラキ書。

6新約聖書

新約聖書は、旧約聖書を成就し、また解釈する。それは、イエス・キリストと聖霊における、神の啓示の記録である。新約聖書は、人間とその罪、その救い、世界とその運命に関する、神の最終的な言葉である。

新約聖書の諸巻は、次の通りである。

マタイによる福音書、マルコによる福音書、ルカによる福音書、ヨハネによる福音書、使徒行伝、ローマ人への手紙、コリント人への第一の手紙、コリント人への第二の手紙、ガラテヤ人への手紙、エペソ人への手紙、ピリピ人への手紙、コロサイ人への手紙、テサロニケ人への第一の手紙、テサロニケ人への第二の手紙、テモテへの第一の手紙、テモテへの第二の手紙、テトスへの手紙、ピレモンへの手紙、ヘブル人への手紙、ヤコブの手紙、ペテロの第一の手紙、ペテロの第二の手紙、ヨハネの第一の手紙、ヨハネの第二の手紙、ヨハネの第三の手紙、ユダの手紙、ヨハネの黙示録。

人間

7自由な道徳的人格

神は人間をご自分の像(かたち)に似せて創造された。すなわち、罪なきものとして、また善と悪、正義と不義を選ぶことのできる自由と責任を持つ道徳的存在として創造された。アダムの子孫である人間は、アダムが犯した罪のために、その本性において腐敗しているので、生れながらに罪を犯す傾向性を持っている。人間は、自分自身の力と働きによっては、神との正しい関係を回復し、永遠の救いに値するものとなることはできない。全能の神は、三位一体の神のすべての力を働かせて、人間が、イエス・キリストを救い主であり主であると信じることによって、神の恵みに応答することができるようにして下さった。人間は、神の恵みと助けによって、自由意志により、よい働きをすることができるようにして頂ける。

8生活と愛の律法

人間の生活のあらゆることがらに関する律法は、個人的なものであれ社会的なものであれ、神の二つの戒めに表現されている。すなわち、心をつくして主なる神を愛せよ、また、自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ、という戒めである。これらの戒めは、神との関係において、また対人関係、対社会関係において、人間にとって何が最善であるかを啓示している。これらは、個人的および社会的行動における、人間の義務についての原則を提示している。これらの戒めは、神が唯一の主権者であることを認めている。すべての人間は、神によって、神の像(かたち)に創造されたものとして、性、人種、また皮膚の色の違いにかかわらず、同じ固有の権利を持っている。そういうわけで、人間は、その個人的、社会的、政治的行動において、神に絶対的な従順をもって仕えるべきである。私たちは、道徳律法の中に示されている権利の所有とその行使について、各自の人格、権利、最大限の幸福が尊重され、すべての人に保証されるように努力しなければならない。

9善い働き

善い働きは、イエス・キリストを信ずる信仰の実である。しかし、善い働きは、罪からも、神の裁きからも、私たちを救うことはできない。私たちの善い働きは、神への敬虔と謙遜の心からなされ、またキリスト教の信仰と愛の表現として行なわれる時にのみ、神に受け入れられ、喜ばれる。しかし、善い働きによって、神の恵みを獲得することはできない。

救い

10キリストのいけにえ

キリストは、全世界の罪のために、一度限り、唯一の完全ないけにえを捧げられた。これ以外に、贖罪の行為は不必要である。ほかの何ものも、罪をあがなうことはできない。

11キリストにある新しい生命

私たちが、新しい生命と神との正しい関係にあずかる道は、イエス・キリストにおける神のあがないの行為によって開かれた。神は、私たちが悔い改め、信仰をもってその恵みに応答するとき、聖霊によって、私たちに新しい生命を与え、神との交わりに入れて下さる。「義認」・「新生」・「神の子とされる」という三つの用語は、新しい生命に入り、そこにとどまるということが、どういう内容を持っているかをよく表している。

義認

「義認」という言葉は法律用語であって、それは、私たちがイエス・キリストにある新しい関係に入れられることによって、実際に義しい者とみなされ、私たちの罪科と刑罰から開放されるという側面を強調している。

新生

「新生」という言葉は生物学的用語であって、それは、キリストにある新しい関係によって、実際に私たちは、新しい生命と霊的性質を持つ者とされ、それによって、イエス・キリストを主として信じ、愛し、服従する生活が可能とされる、ということを表している。信仰者は、新生した者である。新しく創造された者である。古い生命は過ぎ去り、新しい生命が始まっているのである。

神の子とされる

「神の子とされる」ということは、温かさと愛、そして受容の心に満ちた、子としての身分に関する用語である。それは、キリストにある新しい関係によって、私たちが罪とサタンの支配から開放され、神が望まれるような子となった、ということを意味している。信仰者は、自分が神の子であるという、聖霊の証しを持っている。

12全き聖化

全き聖化とは、新生に続く聖霊の働きである。それは、完全に献身した信仰者がキリストのあがないの血を信じる信仰を働かせる時、聖霊の働きにより、心の中のすべての罪よりきよめられ、奉仕のために力を与えられることである。その結果として生じた神との特別な関係は、聖霊の証しによって確証され、信仰と服従によって維持される。全き聖化は、信仰者が、心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして神を愛し、また自分を愛するように隣り人を愛することができるようにする。また、全き聖化は、さらに大きく恵みに成長するように信仰者を整える。

13回復

クリスチャンは、救い主であり主であるイエスとの関係が深められてゆくことによって、救いのうちに保たれる。しかし彼は、罪の支配下に戻ることはなくても、生命の関係の中にありながら、聖霊を悲しませることはありうる。そのような時には、彼は聖霊の矯正を謙虚に受け入れ、イエスのとりなしに信頼して、その関係を修復しなければならない。

クリスチャンは、故意に罪を犯し、キリストとの関係を断つことができる。しかし、たとえそのようなことになっても、神のみ前に悔い改めることによって、罪の赦しが与えられ、キリストとの関係を回復して頂ける。なぜなら、すべての罪が聖霊にさからう罪というわけではなく、赦されない罪というわけでもない。神の恵みは、真実に悔い改める者にとって十分であり、また神の力により、彼らの生活は改善される。しかし、罪が赦されるからといって、クリスチャンは自由に罪を犯してよいということではなく、犯した罪の結果から免れられるということでもない。

神は、悔い改める信仰者を、愛の叱責、助言、そして受容を通して再起させるように、その責任と権威とを教会に与えておられる。

教会

14教会

教会は神によって創造された。教会は神の民である。キリスト・イエスがその主であり、かしらである。聖霊は、教会の生命であり、力である。教会は、神的であると同時に人間的であり、天的であると同時に地上的であり、理想的であると同時に不完全である。教会は有機体であって、不変の制度ではない。教会は、キリストにある神の目的を達成するために、存在している。教会は、人々の罪をあがなう仕方で、彼らに仕える。キリストは教会を愛し、教会のためにご自身を与えられた。それは、教会が聖く、汚れのないものとなるためである。教会は、あがなわれた者とあがなって下さる方との交わりであって、それは、キリストの教えに従って、神の言葉を宣教し、聖礼典を執り行うことによってなされる。フリーメソジスト教会の目的は、地上でのイエス・キリストの教会の、あるべき姿を代表することである。そういうわけで、フリーメソジスト教会は、その会員の信仰と生活に関して、具体的な献身を要求する。その要求とは、キリストを崇め、書かれた神の言葉に従うことを具体的に求めるものである。

15礼拝に用いる言語

神の言葉と初代教会の習慣によると、公の礼拝、祈り、および聖礼典の執行は、人々に理解できる言語でなされるべきである。宗教改革は、この原則を適用して、人々の日常の言語を用いる道を開いた。同じように使徒パウロは、礼拝において、理性的で理解できる言葉を語るべきことを強調した。私たちは、これらの聖書的原則に明らかに反するような行動を容認することはできない。

16聖礼典

水によるバプテスマと聖餐式は、キリストによって制定された教会の聖礼典である。これらの聖礼典は、信仰による恵みの手段であり、キリスト教信仰の告白の具体的な“しるし”であり、私たちに向けられた、神の恵み深い働きを指し示すサインである。神は、聖礼典によって私たちのうちに働き、私たちの信仰を活かし、強め、また堅固にして下さる。

バプテスマ

水によるバプテスマは、私たちの主によって命じられた教会の聖礼典である。それは、バプテスマの志願者が、信じる者に与えられるイエス・キリストのあがないの恩恵を受け入れることを意味すると共に、イエス・キリストを救い主として信じる信仰を宣言することである。

バプテスマは、割礼が旧い契約のシンボルであったように、新しい恵みの契約のシンボルである。また、私たちは、幼児がキリストのあがないの中に含まれていることを認めるので、両親または保護者が、クリスチャンとなるために必要な訓練を幼児に与えることを約束するときには、彼らの求めに応じて幼児にバプテスマを授けることができるという立場をとる。幼児が成長して、教会員として受け入れられる前に、彼らは自分自身で誓約を確認しなければならない。

聖餐

聖餐は、キリストの死によるあがないを表す聖礼典である。私たちが割くパンに与ることは、正しい心で感謝と信仰をもって受ける限り、キリストの体に与ることである。同じように、祝福のさかずきを受けることは、キリストの血に与ることである。聖餐は、また、クリスチャンの交わりにおける、愛と一致のしるしである。

キリストの約束によれば、彼は聖礼典において実際に臨在しておられる。しかし、キリストの体は、ただ天的で霊的な仕方でのみ、与えられ、受け取られ、食せられる。聖餐の要素であるパンとぶどう酒の本質に、変化が起こるわけではない。すなわち、パンとぶどう酒は、文字通りのキリストの体と血ではない。また、キリストの体と血が、文字通り、パンとぶどう酒と共に存在するのでもない。パンとぶどう酒は、決して、礼拝の対象と考えられてはならない。キリストの体は、信仰によって受け取られ、食されるのである。

終末について

17神の国

神の国は、クリスチャンに使命と希望を与える、非常に重要な聖書的主題である。イエスはその到来を告知された。神の国は、信じる人々の心と生活のうちに、神の支配が確立されることによって、いま、実現される。教会は、祈りと模範と福音の宣教を通して、神の国を建設するために指定された、神による適任のうつわである。しかし、神の国は、また未来に属することがらであり、現在の世界の秩序に審判をもたらすキリストの再臨にかかわっている。その時、キリストの敵は征服され、神の支配は確立されるであろう。また、物質的にも倫理的にも、全宇宙が新しく造り変えられ、あがなわれた人々の希望は完全に実現されるのである。

18キリストの再臨

キリストの再臨は確実なことがらであって、いつ、いかなる瞬間にでも起こり得る。しかし、その時期は、私たちに知らされていない。再臨の時には、キリストがすべての悪に対して最終的に勝利されるという預言が、全部成就されるであろう。それに応えて信仰者は、喜びに満ちた期待をもって、いつも目を覚まし、用意をして、勤勉に生きるべきである。

19復活

正しい人も不正な人も、死者の中から体をもって復活する時が来る。善を行なった人々は生命を受けるために復活し、悪を行なった人々は刑罰を受けるために復活する。復活した体は霊的な体であるが、人格として完全であって、同一人物として識別することができる。キリストの復活は、彼を信じる人々が生命に復活することの保証である。

20審判

神は、福音によって、また人々がこの世で行なったことに従って、義をもって世界をさばく日を定めておられる。

最後の運命

人間の永遠の運命は、神の独断的な聖定というようなものによってではなく、神の恵みとそれに対する人間の応答によって決まるのである。キリストを信頼し、イエスを救い主また主として従順に従う人々には、永遠の栄光に輝く天国と、キリストの臨在による祝福がある。しかし、最後まで悔い改めない人々には、神から切り離された永遠の苦しみの地獄がある。

フリーメソジスト教会の教理は、聖書に基づき、聖書全体の文脈から導き出された。以下の引照は、それぞれの主題に関連した適切な聖句である。これらの聖句は、聖書の順番に従って挙げられているが、すべてを網羅しているわけではない。

-引用聖句-

Ⅰ.聖なる三位一体
創世1:1-2;出エジプト3:13-15;申命6:4;マタイ28:19;ヨハネ1:1-3;
5:19-23;8:58;14:9-11;15:26;16:13-15;Ⅱコリント13:14
Ⅱ.子なる神-受肉
マタイ1:21;20:28;26:27-28;ルカ1:35;19:10;ヨハネ1:1,10,14;
Ⅱコリント5:18-19;ピリピ2:5-8;ヘブル2:17;9:14-15.
Ⅲ.子なる神-復活と高挙
マタイ25:31-32;ルカ24:1-7;24:39;ヨハネ20:19;使徒1:9-11;2:24;
ローマ8:33-34;Ⅱコリント5:10;ピリピ2:9-11;ヘブル1:1-4
Ⅳ.聖霊-その人格
マタイ28:19;ヨハネ4:24;14:16-17,26;15:26;16:13-15.
聖霊-救いにおける働き
ヨハネ16:7-8;使徒15:8-9;ローマ8:9,14-16;Ⅰコリント3:16;
Ⅱコリント3:17-18;ガラテヤ4:6.
聖霊-教会との関係
使徒5:3-4;ローマ8:14;Ⅰコリント12:4-7;Ⅱペテロ1:21.
聖書
Ⅳ.権威
申命4:2;28:9;詩19:7-11;ヨハネ14:26;17:17;ローマ15:4;
Ⅱテモテ3:14-17;ヘブル4:12;ヤコブ1:21.
Ⅴ.旧約聖書の権威
マタイ5:17-18;ルカ10:25-28;ヨハネ5:39,46-47;使徒10:43;ガラテヤ5:3-4;Ⅰペテロ1:10-12.
Ⅵ.新約聖書
マタイ24:35;マルコ8:38;ヨハネ14:24;ヘブル2:1-4;Ⅱペテロ1:16-21;
Ⅰヨハネ2:2-6;黙示21:5;22:19.
人間
Ⅶ.人間:自由な道徳的人格
創世1:27;詩51:5;130:3;ローマ5:17-19;エペソ2:8-10.
Ⅷ.生活と愛の律法
マタイ23:35-40;ヨハネ15:17;ガラテヤ3:28;Ⅰヨハネ4:19-21.
Ⅸ.善い働き
マタイ5:16;7:16-20;ローマ3:27-28;エペソ2:10;Ⅱテモテ1:8-9;
テトス3:5.
救い
Ⅹ.キリストのいけにえ
ルカ24:46-48;ヨハネ3:16;使徒4:12;ローマ5:8-11;ガラテヤ2:16;3:2-3;
エペソ1:7-8;2:13;ヘブル9:11-14,25-26;10:8-14.
XⅠ.キリストにある新しい生命
ヨハネ1:12-13;3:3-8;使徒13:38-39;ローマ8:15-17;エペソ2:8-9;
コロサイ3:9-10.
「義認」
詩32:1-2;使徒10:43;ローマ3:21-26,28;4:2-5;5:8-9;Ⅰコリント6:11;
ピリピ3:9.
「新生」
エゼキエル36:26-27;ヨハネ5:24;ローマ6:4;Ⅱコリント5:17;
エペソ4:22-24;コロサイ3:9-10;テトス3:4-5;Ⅰペテロ1:23.
「子とされる」
ローマ8:15-17;ガラテヤ4:4-7;エペソ1:5-6;Ⅰヨハネ3:1-3.
XⅡ.全き聖化
レビ20:7-8;ヨハネ14:16-17;17:19;使徒1:8;2:4;15:8-9;ローマ5:3-5;
8:12-17;12:1-2;Ⅰコリント6:11;12:4-11;ガラテヤ5:22-25;エペソ4:22-24;Ⅰテサロニケ4:7;5:23-24;Ⅱテサロニケ2:13;ヘブル10:14.
XⅢ.回復
マタイ12:31-32;18:21-22;ローマ6:1-2;ガラテヤ6:1;Ⅰヨハネ1:9;2:1-2;
5:16-17;黙示2:5;3:19-20.
教会
XⅥ.教会
マタイ16:15-18;18:17;使徒2:41-47;9:31;12:5;14:23-26;15:22;20:28;Ⅰコリント1:2;11:23;12:28;16:1;エペソ1:22-23;2:19-22;3:9-10;5:22-23;コロサイ1:18;Ⅰテモテ3:14-15.
XⅤ.礼拝に用いる言語
ネヘミヤ8:5,6,8;マタイ6:7;Ⅰコリント14:6-9;23-25.
XⅥ.聖礼典
マタイ26:26-29;28:19;使徒22:16;ローマ4:11;Ⅰコリント10:16-17;
11:23-26;ガラテヤ3:27.
バプテスマ
使徒2:38,41;8:12-17;9:18;16:33;18:8;19:5;ヨハネ3:5;Ⅰコリント12:13;ガラテヤ3:27-29;コロサイ2:11-12;テトス3:5.
聖餐
マルコ14:22-24;ヨハネ6:53-58;使徒2:46;Ⅰコリント5:7-8;10:16;11:20,23-29.
終末について
XⅦ.神の国
マタイ6:10,19-20;24:14;使徒1:8;ローマ8:19-23;Ⅰコリント15:20-25;
ピリピ2:9-10;Ⅰテサロニケ4:15-17;Ⅱテサロニケ1:5-12;Ⅱペテロ3:3-10;
黙示14:6;21:3-8;22:1-5,17.
XⅧ.キリストの再臨
マタイ24:1-51;26:64;マルコ13:26-27;ルカ17:26-37;ヨハネ14:1-3;
使徒1:9-11;Ⅰテサロニケ4:13-18;テトス2:11-14;ヘブル9:27-28;黙示1:7;19:11-16;22:6-7,12,20.
XⅨ.復活
ヨハネ5:28-29;Ⅰコリント15:20,51-57;Ⅱコリント4:13-14.
XⅩ.審判
マタイ25:31-46;ルカ11:31-32;使徒10:42;17:31;ローマ2:15-16;14:10-11;Ⅱコリント5:6-10;ヘブル9:27-28;10:26-31;Ⅱペテロ3:7.
XXⅠ.最後の運命
マルコ9:42-48;ヨハネ14:3;ヘブル2:1-3;黙示20:11-15;21:22-27.